絢爛たる北条の女たち第八話武田と北条の間に可憐に咲いた4代氏政正室黄梅院

絢爛たる北条の女たち第八話武田と北条の間に可憐に咲いた4代氏政正室黄梅院

黄梅院

氏政正室:黄梅院(父:武田晴信(信玄))

黄梅院(おうばいいん(こうばいいん)、天文12年(1543年) - 永禄12年6月17日(1569年7月30日))は武田信玄正室・三条の方の長女。

武田義信は同母兄、武田勝頼は異母弟。

甲斐国の生まれ。

甲相駿一和

北条氏康は東へ戦線を拡大していた。

西にはその意思はなかった。

そのことを西の駿河今川義元、甲斐の武田信玄に伝えた。

今川は三河を、武田は信濃を攻略中、東を覗っていない。

…箱根峠、小仏峠碓井峠…3者の利害は一致し、天文23年1554年、甲斐、相模、駿河国は一和し、甲相駿三国同盟が結ばれた。

順次3国間で婚姻が交わされた。

北条氏康の息子氏政は武田信玄の婿になる。

武田信玄の息子義信は今川義元の婿になる。

今川義元の息子氏真は北条氏康の婿になる

黄梅院 甲斐から相模へ、氏政の正室

今川氏・武田氏・北条氏の甲相駿三国同盟のために、天文23年(1554年)12月、12歳の若さで北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁ぐ。

その輿入れ行列は、一万人もの供の者が付き従い、輿が12挺、長持42挺、大変豪華であった。

生涯に7人の子供を出産し、そのうち5人は元気に育ちます。

後に北条家を継ぐ事になる氏直、後に千葉邦胤(ちばくにたね)と結婚する女の子・芳桂院、

その邦胤の婿養子に入って千葉氏を継ぐ直重(なおしげ)、

大田氏資(うじすけ)の養子となって大田家を継ぐ氏房(うじふさ)、

小田原開城後に徳川家康に仕える直定・・・

結婚後、夫婦間は良好だったようで、嫡男北条氏直や氏房など4人の子供にも恵まれ幸せな歳月を過ごしていましたが……

戦国武将の政略結婚

戦国武将や姫君たちが政略結婚する理由は様々。。

・他国と同盟を結んだり、同盟国との結束を高めるため

・優秀な家臣を血族として迎え入れ、忠誠を得るため

・大国への恭順の証を示すため

・侵略した土地の姫君を妻や側室にすることで、その土地を治める正統性を持たせるため

激震が相模を襲う。

永禄8年(1565)、今川義元桶狭間の戦い織田信長に討たれた。

永禄11年(1568)信玄が今川領内に侵攻。

今川氏真へ娘を輿入れさせていた北条氏康は、武田勢に今川家が攻められた際、娘が籠にも乗せられずに徒歩で退避させられたことを、「この恥辱をすすぐことはできない」と嘆いた。

遺恨、憎悪が戦国大名の行動論理だった。

1568年甲相駿三国同盟は破棄となった。

越相一和の衝撃

武田信玄に強い危機感を持った北条氏康は、宿敵上杉謙信に講和を働きかけた。

反信玄連盟の越相一和である。

悲劇の離縁

今川家に娘を嫁がせていた北条氏康はその報復として黄梅院と氏政とを離縁させ、黄梅院は甲府へ返されてしまう。

その際、氏政からは堪忍分として16貫文余を与えられている。

氏政本人は最後まで離婚を渋っており、愛妻家としても知られていた氏政は横梅院を国境まで見送った…

氏康の死の直後に武田と和睦した際には真っ先に妻の遺骨を貰い受け手厚く葬っている。

夫・氏政と離縁し、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺住職の安之玄穏を導師に、出家したとも言われる。

そして永禄12年(1569年)6月17日、27歳の若さで死去した。

信玄は薄幸な長女のために、巨摩郡竜地(甲斐市)に菩提寺黄梅院を建立し葬り、墓碑が現存している。

元亀元年(1570年)の12月20日には、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行い、大泉寺に黄梅院領として南湖郷を寄進している。

夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年(1571年)12月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。

黄梅院は明治時代に廃寺となり往時を偲ぶことはできないが、その跡に五輪塔や石造物があり、黄梅院跡は甲斐市の史跡として指定されています。。

4代氏政正妻黄梅院殿は正に禄壽応穏の人だった。

参考資料

甲斐市ホームページ

新人物往来社発行 黒田基樹著 北条早雲とその一族

教育社発行 江西逸志子原著 岸正尚訳 小田原北条記

新紀元社発行 相川司著 戦国北条一族

制作発信 社会保障・安全衛生コンシェルジェ 特定社会保険労務士 金丸亜紀雄